🌈🏳‍🌈サークルアイス🍨🍦🔥のブログ

フェミニズムとLGBTQ∔のことを考えるサークルアイスによるブログです。

2021年八月企画「私とポストフェミニズム」【口紅とフェミニズム】(しー🌃)

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☆本記事は、2021年8月の企画「私とポストフェミニズム」noteを移行したものです。

 

サークルアイスの今回の企画は、メンバー一人一人が「わたしとポストフェミニズム」という題でエッセイを書くことです。本記事 しー🌃 のエッセイ「わたしとポストフェミニズム」をお送りします✍✍

わたしとポストフェミニズム 

                  筆者:しー🌃

 

 

〇わたしのフェミニズム/ポストフェミニズムとの出会い 

大学生のころからフェミニズムに興味を持ち始めた私は、少しずつ本や論文を読み始めるとともに、TwitterなどのSNSでもフェミな方々と交流するようになっていきました。Twitterをみていると、一人ひとり私と同じ時間を生きている方々が、生身の経験から基づいた言葉をリアルタイムで発信しているのを見ることができました。それによって私は、自分と同じような社会への違和感、志を持った人たちが本当にいるんだ、と安心したことを覚えています。
 しかし、同時に、女性をエンパワメントする「フェミニズム」のように見える言説の中にも、突き詰めれば従来の女性ジェンダーの規範から抜け出していないような価値観を内包しているものが潜んでいることに、気が付きはじめました。具体的に言えば、従来のジェンダー規範が女性に要求してきた「男性に守られたいという欲望」「外見の美しさへの欲望」のような「女性らしさ」を「自分らしさ」などとと言い換えることで、外部から規定されジャッジされた「女らしさ」という形ではなく、あたかも完全に自分たちの手の中に取り返した「『自分』らしさ」のように扱い、自分たちの欲望や行為は「フェミニズム」によって100%擁護されうることだとして無批判に称揚する雰囲気があるような気がしはじめました。私はそのことに違和感を覚えつつも、言語化することの難しさを感じ悶々としていました。

〇ポストフェミニズムについて/「リップスティック・フェミニズム

 調べるうちに、そういった言説や雰囲気が「ポストフェミニズム」という現象・雰囲気に派生するものであることがわかっていきました。
 日本のポストフェミニズム論者である菊地夏野先生は、ご著書「日本のポストフェミニズム 女子力とネオリベラリズム」の中で、欧米産の概念であるポスト・フェミニズムを日本の女性たちがおかれた状況に照らし合わせ、「日本のポストフェミニズム」とはどのようなものか、という視点で書かれています。菊地先生は、欧米のポストフェミニズム論を紹介し、ポストフェミニズムではネオリベラリズムと呼応したものであることを指摘し、次のように書かれています。


「ポストフェミニズムとは、何かの思想や政治的立場のような明確な内容をもつもの では なく、現在の社会の多くに浸透している社会意識や言説の一定の傾向を指している。」
「しかし、多くの論者の指摘に共通するのが、「女性の成功」を称揚するというポストフェミニズムの特質である。フェミニズムは女性の集合体としての社会的地位の向上を目指し たが、ポストフェミニズムにおいてはあくまで個人的な成功に価値がおかれる。」
(菊地 夏野. 日本のポストフェミニズム: 「女子力」とネオリベラリズム )大月書店.より)

そして、これは菊地先生の書かれていることとは別のソースからの情報ですがポストフェミニズム的な流れを汲んだ「リップスティック・フェミニズム」と名付けられた潮流もあるようです。以下はヨーロッパの英語メディアの文章(Arianna Marchetti” Lipstick Feminism, Neoliberalism & the undoing of Feminism” 1st Arpril,2020)ですが、一部引用し、翻訳させていただきます。

“Lipstick feminism is a third wave feminist movement that supports the idea of accepting and embracing femininity to help women’s empowerment. Quite literally, lipstick feminists believe that wearing makeup and sexy clothes does not make you less of a feminist, on the contrary, it means taking control of society’s beauty standards and reclaiming what belongs to women. The underlining idea of lipstick feminism is that traditional feminism is entrenched in a negative attitude towards femininity and discourages women to pursue what is traditionally seen as female. This self-imposed deprivation is seen as yet another form of oppression towards women and as an obstacle to their liberation.”
(翻訳)「リップスティック・フェミニズムとは、女性のエンパワメントに役立てるために女性らしさを受け入れ、包含するという考えを支持する、第三波フェミニストの運動である。リップスティック・フェミニストたちは文字通り(その名前の通り)、女性が化粧をすることやセクシーな衣服を身に着けることが、彼女たちをフェミニストでなくさせることはないと信じている。反対に、(女性が化粧をすることやセクシーな衣服を身に着けることで)社会の美の基準をコントロールし、女性たちのものを女性自身の手に取り戻すことになるというのだ。
 リップスティック・フェミニズムの根底にあるのは、伝統的なフェミニズムは女性らしさに対する否定的な立場に凝り固まり、女性が伝統的な女性らしさを追い求めることに対して水を差してきた、という考えである。この、フェミニズムが自主的に課してきた(女性らしさおよびその欲望の)はく奪が、女性に対する別の形の抑圧になっており、女性の自由を妨げるものだと見られているのである。」  

上記の文章は、以下のようにも語っています。

”The real danger of lipstick feminism does not lie on its approach to make up, way of dressing and the like, but on its complicity with neoliberalism.”
(翻訳)リップスティック・フェミニズムの真の危険性とは、化粧することや、どのように装うかということなどへのアプローチではなく、ネオリベラリズムとの共犯関係の中にあるのだ。

リップスティック・フェミニズムはもちろん欧米産の概念ですし、日本においてはリップスティック・フェミニズムという概念そのものはあまり浸透していません。私も、今回色々調べていく中で、初めて「リップスティック・フェミニズム」という言葉に出会いました。しかしながら、日本においても上記のような現象と同じような雰囲気や、それに伴った言説が存在しているのではないでしょうか。
実際、「化粧や脱毛をすることはフェミニズムと矛盾しない、女性にとって自分のための、自由意思による主体的な行為である」ということを強調するような言説を私はよく見かけました。それは時に、女性たちが化粧や脱毛といった、伝統的に女性に要求されてきた美の実践、そしてそれを「自由に選択」し実践することによって勇気づけられ、そのこと自体がフェミニズムによって100%擁護されうる、というような書き方であることもあります。
 私はまさに、そのような事象に違和感を覚えていました。
自分の中に従来のかわいさや美しさなどの「女性らしさ」のようなものを「自ら望んで」追い求める気持ちがあること、そしてそれを実践すること。もちろんそのこと自体は誰にも責められるべきではないと思います。
しかし、女性らしさへの欲望を無批判に肯定し、自分たちのエンパワメントとして称揚することだけが「フェミニズム」の試みだと言えるのでしょうか。本来、フェミニズムとは、「その欲望はどこから来て、その達成によって女性が何を得て、そして何を奪われるのか?」「女性の経済力と、女性間の経済格差、そして化粧や脱毛などの美の実践の関係はどのようなものか?」「自分たちがたまたま適応できている規範から疎外された他者は、どのように排除されうるのか?」「自分たちの言説や行為がその排除に加担している可能性はないのか」といった、ラディカルな問いかけを絶えず自分や社会に投げかけ、考え続ける試みではなかったのでしょうか。

〇矛盾したくない気持ち

これは完全なる私の持論ですが、いわゆる「ポストフェミニズム」や「リップスティック・フェミニズム」言説の原因として、社会的背景や新自由主義への適応の必要に乗じて、という大きな流れと呼べるもののほかに、女性たちの「矛盾したくない気持ち」があるのではないかと思っています。私は、自分の女性らしさへの欲望と、フェミニズムという思想は時に矛盾すると考えています。日々労働や勉強し、自分の人生におけるさまざま悩みや関心事を抱えながら必死に生活している…その中で自分が「楽しい」と思えることと、自分の思想との関係性・矛盾を考えることは、決してたやすいことではありません。加えて、矛盾しているということそのものが責められるような風潮がはびこっている中で、自分の中に矛盾があるということですら許せなくなってしまうのではないでしょうか。そして「フェミニズム」の名のもとに、すべてを無批判に肯定するような言説が生まれていくのではないか…おおざっぱですが私はそのように考えています。
しかし、必要なのは、自分の中の矛盾を正当化し覆い隠すことではなく、矛盾の存在を認め、矛盾とそれが生み出される背景について考えることではないでしょうか。

〇まとめ
 今回、「わたしとポストフェミニズム」という課題を設定したのはほかならぬ私自身でした。「ポストフェミニズム」について勉強中なので、未熟で中途半端な内容になってしまったかもしれませんが、今の私が書けることは以上です。
また、書き終わった今、非常に反省していることがあるのですが、それはこのエッセイの内容が「わたしとポストフェミニズム」になったかどうかわからないということです。「自分を顧みて、自分と違う他者へ視野を広げられるようなラディカルな問いかけをすべきだ」と偉そうなことを書いておきながら、私は「わたしの『中の』ポストフェミニズム」について書くことができませんでした。これは大変不誠実な姿勢だったかと思います。
言い訳のように付け加えておけば、私も普段自分の中でフェミニズムとの矛盾を感じながら日々生活しています。自分が実生活の中で思想と矛盾するのはもう仕方ないので矛盾を抱えながら生きるが、議論の方向性としては、批評性を欠かないようなものになるよう気を付けていけたらいいのかなと私は考えています。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


〇参考文献

 ・菊地夏野「わたしとポストフェミニズム 女子力とネオリベラリズム」2019年、大槻書店

Arianna Marchetti” Lipstick Feminism, Neoliberalism & the undoing of Feminism” 1st Arpril,2020
https://www.youngfeminist.eu/2020/04/lipstick-feminism-neoliberalism-and-the-undoing-of-feminism/

★今回の参考文献ではないですが、ポストフェミニズム論と似たような問題意識をもって書かれた文献など、ポストフェミニズム論を深めるうえで役に立ちそうなものをいくつか紹介させていただきます。

①Choose大学 3月第1回「政治とは何か?」フェミニズムと政治ーイントロ 森発言からー 講師:菊地夏野(社会学者)
こちらは、菊地夏野先生が全四回にわたって、フェミズム・ポストフェミニズム論・ネオリベラリズムに関して一回三十分ほどの講義を行っているChoose大学のシリーズの第一回になります。本を読む余裕や時間がない方も、Youtubeなら少し気軽に見てみることができるのではないでしょうか。

ユリイカ2020年九月号「特集・女オタクの現在-推しとわたし」88ページより、水上文「<消費者フェミニズム>批判序説」2020、青土社
 こちらの号および文章はTwitterの一部界隈ではかなり話題になっていたのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。本論では創作サークル劇団雌猫さんに代表される「浪費肯定スタンス」を批判しつつ、消費主義とオタク、フェミニズムの関係性について書かれています。リップスティック・フェミニズムも結局、より消費行動をするよう、女性にはたらきかけるものなので、そのことと劇団雌猫さんの浪費肯定スタンスを照らし合わせて考えてみても面白いかもしれませんね。