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私とポストフェミニズム【神聖視と差別】(sun)

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本記事は、2021年8月の企画「私とポスト
フェミニズム」noteを、一部を編集した上で移行したものです。

筆者:sun

 

 

本当に「なんだかんだ女性の方が強い」の?

「女性は崇高な存在」とか「母は強し」とか「結局女の人の方が偉い、強い」とか、そんなことばが今の世の中には溢れているように思う。口にするのは本や映画の登場人物だったり、学校の先生、同級生や親戚、ネット上の知らない誰かだったりとさまざまだったけれど、私はこれまで幾度となくそういう言葉を見聞きしてきた。

一見、それらは前時代的な性差別とは遠いところにあるように見えるかもしれない。「自分は差別なんてしていない、むしろ女性は神聖なものだと思っているんだから」というようなことを言う人もネット上では時々見られる。
でも、私は別に望んで持って生まれてきた訳でもない女性性を神秘とか崇高なものとか言われる筋合いはない、と思ってしまうし、母親になったからって女性がみんな強くなれるなんてことがあるんだろうか、男女平等の世の中になったはずなのにどうして女性の方が強いなんて殊更に言う人がいるんだろう、と納得できなくて、得体の知れないモヤモヤを感じ続けていた。

でもである。一般的にイメージされる女性差別というのは「女子供はすっこんでろや!(ちゃぶ台バァァン)」的なアレじゃないのか。それなのに一見女性にとってプラスのことばに対しておかしいと唱えたって、せいぜい神経質すぎだと笑われるのがオチなんじゃないだろうか。

そんな理由で私は、こうした違和感を感じることがあってもその理由を自分でも今一つつかめず、いつも適当に笑って流してしまっていたのだった。

ポストフェミニズム論に触れてみて

今になって思うのは、こういうことばはすごくポストフェミニズム的なものなんじゃないかということだ。
ポストフェミニズムの下での社会の特徴として挙げられるのが、「女性の社会進出」という言説の広まりだ。他のメンバーもしばしば引用している菊池夏野先生の著書から、一部を引用してみたい。

さらに状況をややこしくしているのが、「女性の社会進出」言説である。日本社会では一般に、「戦前は女性は差別されていたが戦後は女性の社会進出が進み、差別はほとんど解消された」というイメージがもたれており、マスメディアの「女性の活躍」言説がこれを後押ししている。たとえば、大企業で活躍する女性を紹介し、それが「女性の活用」や「ワーク・ライフ・バランス」などの政策的目標に合致していて価値があると報道される。だがそれは現実の女性労働の実態を隠蔽し、政策に無批判に追従している。これら政治やマスメディア報道およびインターネット上の言論の結果、日本社会では「女性差別はなくなった」というイメージが醸成され、「にもかかわらず『女性は差別されている』というプロパガンダを唱えるフェミニズム」への反感が生み出されている。(菊池夏野 2019:80-81)

この文で指摘されているのは、「女性の活躍」という言説がわざわざ声高に唱えられる一方で、(おそらく「女性の貧困」に代表されるような)現実起きている問題が隠蔽されるという構造だ。
これに直接結びついてはいないかもしれないけれど、女性の強さや存在自体が殊更に称揚されることがあるという事実もまた、様々な不均衡を覆い隠すものだったりはしないだろうか、と今の私は感じている。

 

神聖視と蔑視というのは紙一重なのでは?

現在進行形で確かに存在しているマイノリティへの差別が、一見彼らをエンパワメントするようなことばで覆い隠されてしまうことって、実は結構あるんじゃないだろうか。と思うのも、私自身それに身に覚えがあるからだ。

 

障がい者の人は綺麗な心を持っているとか、同性愛者の人は美的感覚に優れているとか、数え上げたらきりがないそんな賛辞だってステレオタイプの一つでしかないのに未だに根強い。とても根強い。私の中にだってそうだ。


生きづらさを抱えている人たちを取り上げて称えるような言説は、確かにエンパワメントになることもあるだろう。けれど同時にそれは、実際に起きている問題から私たちの目を逸らさせてしまったり、時にはその構造を正当化する危険も孕んでいるのではないだろうか。「女性の方が強いんだから」「男を転がしておけばいいんだから」という言葉が、時に家父長的な支配から目を逸らさせ、それを正当化することにつながるように。
神聖視だって結局彼らを対等な人間扱いしていないことに変わりはなくて、根拠に乏しい役割分担や隔離を正当化する手段にさえなりかねないのではないだろうか。「母性」が何かスピリチュアルな、女性なら誰もに備わる素晴らしいものと称えられ、時に母親ばかりを過剰に子育てに縛りつけるものとして利用されるように。

 

SDGsだとかジェンダー平等だとかが「急に」叫ばれるようになって、「何を言ってもセクハラになる世の中(そんなことはないのに…)」になっていく中で、「女性を持ち上げておけばいいんだろう」とこういう言葉を口にする人たちがもしかしたら一定数いるのかもしれない。

けれど、お仕着せのようなマイノリティ称揚のことばは、結局は根強い差別の構造を、そしてそれを否が応でも内面化してしまっている各人の意識を、ただその場しのぎで覆い隠すことにしかならない(そして強化さえしてしまう危険さえある)のではないかと思う。

そして私は、今たくさんの人に煙たがられているように見えるフェミニズムというものは、そんな風にまにあわせではない本当の平等を考えるための、一つの足がかりになり得たりはしないでしょうか、と問うてみたいのだ。

参考文献

・菊池夏野(2019)『日本のポストフェミニズム 「女子力」とネオリベラリズム』大月書店