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フェミニズムとLGBTQ∔のことを考えるサークルアイスによるブログです。

10月企画:「王子様」になりたかった私を救った『少女革命ウテナ』というアニメ(sun)

筆者:sun

この文章は、1997年に放送されたTVアニメ『少女革命ウテナ』(以下『ウテナ』)の、最終回までの内容に触れています。また、個人的な経験と結びつけた解釈で、筆者にとっての『ウテナ』について綴った内容であることをはじめにお断りしておきます。

また、本記事は、10月企画の「好きな漫画やアニメについてジェンダーセクシュアリティの視点からエッセイを書く」note記事を、一部を編集した上で移行したものです。

 

女らしさに対する葛藤

いきなり個人的な話になるのだが、私は小さい頃からボーイッシュな女の子キャラクターや、中性的なキャラクターが好きだった。確かプリキュアで好きだったのは美墨なぎさ夏木りんだったと思うし、成長してあらためてアニメを見るようになってから夢中になったのはHUNTER×HUNTERのクラピカや、セーラームーンのウラヌスだった(少し世代が古くないかというのはさておき)。

プリキュアに関して言えば、人見知りで運動音痴な女の子だった私の目には、単に運動ができたり男の子と対等にやりあえるような活発な女の子キャラクターが、とても眩しく映っていた、というだけの話なのだろうと思う。

けれど思春期になるにつれて、次第に私のその気持ちには、確かに女性嫌悪的な感情が混ざっていった。上野千鶴子氏が『女ぎらい』の中で、ミソジニーは「女にとっては『自己嫌悪』(12頁)」として働くと書いていたが、私にとってもそれは例外ではなかったのだろう。

家族にしばしば「あなたはぱっと見大人しいけど考え方は男っぽいよね」というようなことを言われていたのだけれど、中高時代までの私は、それを内心誇らしくさえ思っていたものだった。歪んでいたと思う。「理性的に物事を考えること、感情的にならないこと、賢いこと」を男性的であることと結びつけて、女性であることはそうではないことだという考え方を、完全に内面化してしまっていたのだから。

自分から「女らしさ」を排さなければ、男性にはなれないとしても「男性的」でなければ、自分を本当に肯定することはできないような気がしていた。デフォルトの人間である前に、いつも「女子」とみなされてしまうことへの気持ち悪さもあった。そうは言っても女らしさを完全に捨ててしまったら本当に幸せにはなれないような気もどこかでしていて、周囲の雰囲気からはみ出すのも怖かった私は、結局は「なんちゃってサバサバ女」くらいの中途半端なポジションに収まっていたような気がするのだけど。

そして「女らしさ」を拒みたい気持ちがあり、同時にそれを捨てきれないという葛藤を抱えていた私が、現実の自分から離れられる、現実以外の自分の可能性を提示してくれる二次元の世界の中で求めようとするに至ったのが、冒頭に述べたような「男女どちらの性別に属していることも感じさせない、かっこいい女子あるいは性別不詳のキャラクター」だったのだ。

 

私自身の矛盾、そして『ウテナ

幼い頃に自分を助けてくれた王子様に憧れ、自分も王子様になりたいと願うようになった少女・天上ウテナは、入学した鳳学園で「薔薇の花嫁」と呼ばれる少女・姫宮アンシーと出会う。エンゲージした者に「永遠」に至る「世界を革命する力」を与えるという「薔薇の花嫁」をかけて戦い続ける生徒会役員(デュエリスト)たちは、ウテナがかつて王子様から貰った指輪と同じ「薔薇の刻印」と呼ばれる指輪を持っていた。ウテナもまたこの決闘ゲームに巻き込まれ、その背後にある「世界の果て」へと迫っていく…。1〜13話が生徒会編、14〜24話が黒薔薇編、25〜33話が鳳暁生編、34〜39話が黙示録編。(Wikipedia少女革命ウテナ」より)

前置きが長くなってしまったが、私が『ウテナ』という作品を観てみようと決めたのも、性別を感じさせないかっこいいキャラクターの物語を求めてのことだった。

しかし、既に観たことがある方はこの時点で察したのではないかと思うのだが、私のその淡い希望は第1話で早々に打ち砕かれることになる。ピンク色のロングヘアを颯爽と靡かせ、「僕は守られるお姫様じゃなくて、かっちょいい王子様になりたいの!」と高らかに宣言する天上ウテナというキャラクターは、川上とも子さんによる高めのCVも相まって、紛れもなく「女の子」だったからだ。

そんないわば期待外れの作品だったはずの『ウテナ』がこれほどまでに私にとって大切な作品になってしまったのは、天上ウテナと姫宮アンシーという二人が、どちらも私そのものだったからだと思う。

押し付けられた女の子らしさなんていらない、アンシーがモノみたいに決闘の道具にされるなんておかしいと口にしながら、中盤から登場するアンシーの兄・鳳暁生に「女の子」として扱われれば頬を染めてしまうウテナの矛盾する気持ちも、これが結局は賢い生き方なのだとでもいうように、暁生に利用され、デュエリストたちによって決闘のトロフィーとされることを受け入れるアンシーの諦めのような気持ちも、私には痛いほどよくわかった。私自身はっきりとは認識していなかった矛盾だらけの部分を、あまりにもはっきりとした形で突きつけてきたのが『ウテナ』だったのだ。

 

「あなたは私の王子様にはなれない。女の子だから」

アンシーは38話のラストシーンで、様々なすれ違いを乗り越えて友だちとなり、自分のために暁生と戦ってくれているはずのウテナを背後から剣で貫く。上に示したのは、そのとき彼女がウテナに囁いた台詞だ。

どう考えても矛盾した行動だし、実際に私は初見の時、何が起こっているのか理解できず、正直ほとんど呆然としたままその次の最終話までを観終わってしまったのだけれど(よくわからないまま感動だけはしていた)、今こうやって『ウテナ』のことを観返したりしながら考え続けていると、なんとなくあの場面を捉えなおせるような気がするので、この場を借りて書いてみたいと思う。

ウテナとアンシーが私そのものであるならば、あの場面は私にとって、私の中の矛盾する気持ちの状態そのものだ。ウテナが男性にとって都合のいい「女らしさ」に囚われることなく、自立して生きていこうという決意の気持ちならば、ウテナを刺したアンシーは、本当の意味で「女らしさ」に囚われずに生きることなんて出来っこないという、私の中の諦めの気持ちだった

けれど、ウテナは最後には確かにアンシーを救う。村瀬ひろみ氏は『フェミニズムサブカルチャー批評宣言』の中で、

ウテナの目指す「王子さま」というのは、受け身の守られる無力な人間ではなく、友情のためにみずからを投げ出す勇気と優しさを持った人のことであり、主体的に生きる「気高さ」を忘れない人のことである。「王子さまになる!」という彼女の決意は、「君はやがて女性になるから王子さまにはなれない」というディオスの言葉に象徴されるようにはじめから呪われている。(村瀬ひろみ 2000:165-166)

と述べている。私はこの解釈には同意するのだが、『ウテナ』における「王子様」には、村瀬氏のいうような「①主体として生きる『気高さ』を忘れない人」に加え、「②女性の上に立ち、自分の存在意義のために所有・庇護する、『理想の男性』としての王子」の意味も含まれているのではないかと思う。

もちろんウテナは自らそう言っているように、自分が「女の子」であることを大切にしながら、①の「王子様」を目指しているつもりのキャラクターだろう。

しかしウテナは、決闘という「薔薇の花嫁」を奪い合う舞台に立ち続けていた時点で、自分が②の「王子様」にも、あるいは逆に「王子様」に庇護される存在にもなり得る、不安定な状態にあったといえるのではないだろうか。
事実、彼女は鳳暁生を前に、一時は庇護される「お姫様」の役割をあっさりと受け入れてしまったのだし、最終話で「僕はあなたから姫宮を解放する」と世界の果て=暁生に立ち向かったときでさえも、未だにアンシーを「解放」してあげようという立場にいた。決闘でアンシーを奪い合い庇護する立場に居続けて、彼女の気持ちをわかろうとしていなかったときには、ウテナが思っていた「王子様」は未だ、後者の意味を含むものだったかもしれないのだ。

 

けれど彼女は、傷だらけになってもただアンシーを助けたいというひたむきな思いで、ただの友達としてアンシーに手を伸ばした。この時、彼女はデュエリスト同士が薔薇の花嫁をめぐって争うことによって成立する、ここまでの物語の構造そのものから無自覚に降りていて、だからこそアンシーを救うことができたのではないだろうか。そしてその事実は、「自立していたい、そのためには『男性的』であらねばならない」とどこかで思い込んでいて、男性的でいるか、女性的でいるかというたった二つの選択肢の狭間で葛藤するしかなかった私のことも、別にそんなことで悩む必要は無いのだ、勇気と気高ささえ忘れなければ良いのだと、この時確かに救ってくれたのだと思う。

①の意味では、ウテナは確かに「王子様」になれたのだと思うし、アンシーもまた同様にそうなのだろう。OPの最後だけに描かれる、鎧を身にまとって馬で駆けるウテナとアンシーは、「女らしさ」の枠組みから解き放たれて、気高く生きる主体となることができた二人の姿だと私は思う。

 

ウテナとアンシーは確かに私の中にいる。それだけではない。あまりに不器用にしかその想い人を愛せない有栖川樹璃も、憧れの存在への愛がどこか空回りしまくっている桐生七実も、ウテナやアンシー、樹璃のような「選ばれた存在」を時に憎ましく思うほどに羨望してしまう篠原若葉や高槻枝織、茎子も、『ウテナ』に登場する少女たちは、みんな私の中にいて、たくさんの弱さや矛盾を抱えて、いつも私のなかで藻掻いている。

ウテナ』を観た今でも、私は私の中の矛盾を数え切れないほど抱え続けたままでいる。けれど、そんなふうに欠陥だらけの少女たちを、それでもいとおしみをもって描いてくれる『ウテナ』という作品は、いつもほかならぬ私自身にも寄り添ってくれているし、これからもきっとそうだと思えるのだ。

 

参考文献ほか

取り上げた作品
・『少女革命ウテナ』企画・原作/ビーパパス 原案・監督/幾原邦彦 原案・漫画/さいとうちほ シリーズ構成/榎戸洋司 キャラクターデザイン/長谷川眞也 コンセプトデザイン/長濱博史 監督補佐/金子伸吾・高橋享 音楽/光完信吉 制作/テレビ東京読売広告社 放送/1997年

参考文献
上野千鶴子(2018)『女ぎらい ニッポンのミソジニー朝日新聞出版
・村瀬ひろみ(2000)『フェミニズムサブカルチャー批評宣言』春秋社
Wikipedia少女革命ウテナ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%A5%B3%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%82%A6%E3%83%86%E3%83%8A(最終閲覧日:2021/10/27)